※本ページにはプロモーションが含まれています。

ポンペイ壁画ペンテウスの最後〉ポンペイ壁画

エウリピデス作『バッカスの信女』No.3

「母上、私です。倅のペンテウスです……」
アガウエは息子の胴に足をかけて左腕を引きちぎると、叔母イノは右腕を、叔母アウトノエと他の女どもは肉を引きちぎり、ペンテウス王はバラバラにされてしまいました。

後で正気に戻る母アガウエの心痛は、いかほどであったことでしょうか!

ところで、酒神ディオニュソスの母セメレとペンテウスの母アガウエは姉妹です。ですから、ディオニュソスとペンテウスは従兄弟になります。かたや神、かたや人間。それがペンテウスのコンプレックスになっていたのかもしれません。

エウリピデス作『バッカスの信女』No.3
コロス(合唱隊)=リュディアからきたディオニュソスの信女
※バッカス(ローマ神話)=ディオニュソス(ギリシャ神話)

(テーバイ市のアクロポリス。背景はカドモス宮殿の正面。正面にセメレの塚)

バッカスの信女[3]ペンテウスの死と母親アガウエの悲哀

ペンテウス王を山に案内するディオニュソス

(ディオニュソス、登場)

ディオニュソス
さあ、ペンテウス殿、準備ができましたら、キタイロン山の信女を覗きにいきましょう。

(ディオニュソスの魔力にかかったペンテウス、信女の服装で登場)

ペンテウス
これで俺も信女と同じ格好、覗きに行っても見つかることはないな。
ところで、なんか変だぞ? 太陽が2つ見える。門も2重に見える。お前の姿も牡牛に見えるぞ?
ディオニュソス
やっと、王様も正気になられたのです。
ペンテウス
そうか、山に早くいって、女どもを覗いてみたいものだ。
ディオニュソス
ちょうどよい場所があります。私がご案内いたしましょう。(すぐに見つかって、どんな目に合うことやら)
お帰りには、お母上がお連れいたしましょう。(首だけだがな)
その時のお姿は、皆の目をそばたてましょう。
アガウエよ、カドモスの娘たちよ。今こそ腕を差し伸べて待ち構えておれ。これから、王を決戦の場に連れて行く。勝利は必ず、私のものだがな。

(ペンテウス、ディオニュソス退場)

コロス
いざ行け山へ、足早き狂乱の犬よ。
カドモスの娘らが、祭をしている山へ。
心狂いて女の衣を身にまとい
信女らを覗かんとする男あり。
女らを駆りたてて彼をば討たしめよ。
今こそ正義の剣あらわに下りて
かのエキオンの子、神を蔑する非道の者を
のど貫きて屠れかし。

ペンテウス王の死の知らせ

(使いの者、登場)

使いの者
ペンテウス王が亡くなられた。
コロス
おお、とうとうディオニュソス様の威光が示された。
使いの者
お前たちは、おれの主人のご不幸を喜んでいるのか。
コロス
私たちは異国の者。これで、もはや捕われの身になることはありません。あの非道の男が、どのような死に様をしたか話してください。
使いの者
不埒なことを言う女どもだが、話してやろう。
王様とあの案内人と一緒に我らはキタイロン山にさしかかった時、松に陰った深い谷に歌いながら踊っているバッカスの信女どもがいたのだ。

恐ろしいバッカスの信女の所業

使いの者
王様は、案内人に言われた。
「よく見えぬ。高い樅の木に登れば、女どものけしからぬ振る舞いが見えるであろう」と。
すると、案内人は魔法使いのように飛び上がると、高い樅の木のこずえを弓なりに曲げて地上に持ってきたのだ。とても人間とは思えぬ!
そのこずえに王様を乗せると、また元に戻したのだ。

これで、隠れているはずの王様は女どもに丸見えになってしまった。すると、いつのまにか案内人の姿は消えていて、天から声が降ってきたのだ。
「娘らよ、我らと我が信仰を嘲った者をここに曳いてまいったぞ。ぞんぶんに懲らしめてやれ」
すると同時に、天地に火柱が走ったのだ。

王様の母アガウエ様を先頭に女どもが集まってきて、王様目がけて石や枝や杖を投げつけた。しかし、高いこずえにいる王様には当たることはなかった。
すると、女どもは幹の周りに集まってきて、なんと樅の木を引っこ抜いてしまったのだ。王様がたまらず地上に落ちてくると、アガウエ様はじめ女どもは王様に飛びかかったのだ。

「母上、私です。倅のペンテウスです……」

アガウエ様は王様の胴に足をかけて左腕を引きちぎると、王様の叔母イノ様は右腕を、アウトノエ様も他の女どもも肉を引きちぎり、王様はバラバラにされてしまった。
最後に、アガウエ様は王様の首を杖の先に刺すと、王宮に帰ってこられる様子。この先どうなることやら、おれはもう見たくはないのだが。
ああ、人間にとっては、神様に関わりのあることには、おそれ慎むのが賢明なことだな。

(使いの者、退場)

ペンテウス王の母アガウエ、王の首を持って帰る

コロスの長
何かに取り憑かれたようなアガウエ様が帰ってこられました。

(アガウエ登場。ペンテウスの首を差し出しながら)

アガウエ
これは信女の方々……。山で狩った獲物を持って帰りました。
女だけで、しかも素手でこの若獅子を仕止めたのですよ。それも、私が最初に深傷を負わせたのです。さあ、食事にしましょう。
コロス
なんのお食事ですか?
アガウエ
(ペンテウスの首をなでながら)この子牛の毛はなんと柔らかいこと。さあ、テーバイの人たち、私らカドモスの娘が狩で仕止めたこの獲物をご覧あれ。
父上(カドモス)はどこにおいでですか。お呼びしておくれ。また、倅のペンテウスはどこに。この首を記念に、玄関の上に飾って欲しいのだが。

アガウエをさとす父カドモス

(カドモスとペンテウスの亡骸を運ぶ従者、登場)

カドモス
アガウエは、ここにおったか。イノとアウトノエはまだキタイロン山か。
テイレシアスとともに帰る途中、娘たちの狼藉を知って山に戻り、バラバラになった孫のペンテウスの体を集めてきた。
アガウエ
お父様、親しい方々をお食事に呼んであげて。世にも優れた娘たちの手柄をご自慢なさってください。
とりわけこの私は、素手で獲物を狩ってきたのですから。
カドモス
(独白)不憫な娘、まともに見てはいられぬ。
まったくディオニュソス様は血の通った身内のはずなのに、我らが立ち上がれぬほど打ちのめされた。
アガウエ
まあ、お年寄りは難しい顔をなさって、神様にものを言うのはやめてください。せめて、倅は勇ましい狩人であって欲しいもの。誰か、倅を呼んできておくれ。
カドモス
正気に戻り、自分のしたことに気付いたら、さぞかし悲しむことだろう。このまま狂っていた方が幸せというものか。

正気になったアガウエ

カドモス
娘よ、まず青空を仰いてみるがよい。
アガウエ
どういうことでしょうか。でも、見てみますわ。
カドモス
青空は前と同じように見えるか。心の迷いはまだ去らぬか。
アガウエ
おっしゃる意味がよくわかりませんが……
でも、なんだか頭がはっきりしてきたようです。
カドモス
では聞くが、お前は誰の元へ嫁いだのだ。そして、その夫との間に生まれた子の名はなんというか?
アガウエ
私はエキオン様に嫁ぎ、ペンテウスという子をもうけました。
カドモス
では、お前が腕に抱いておる、その首は誰の首だ?
アガウエ
これは、獅子の首……と、イノもアウトノエも申しておりましたが……
カドモス
よく見るがよい。
アガウエ
なんと、これはわが子ペンテウスの首! 一体、誰が倅を殺しましたの?
カドモス
お前と姉妹のイノとアウトノエ、そして信女たちじゃ。お前たちがディオニュソス様を神と認めようとせぬゆえに、神の霊気によって狂ったのだ。
神を敬わぬという点で、ペンテウスもお前たちも同類。神がもろともに一撃で打ちのめされたのじゃ。
アガウエ
ディオニュソス様の罰。ああ、やっとわかりました……
カドモス
今となっては、恥辱を負うたわしがこのテーバイから追われねばならぬ。
アガウエ
お父様、私は不幸のどん底に落ちてしまいました……

アガウエとカドモスの運命

(ディオニュソス、登場)

ディオニュソス
カドモスよ、なんじは蛇に転じ、なんじの妻アレスの娘ハルモニアもまたその身は蛇と化すであろう。なんじら夫婦には、これから先も苦難が待ち構えている。
神がなんじらごとき人間から無礼な仕打ちを受けて、黙っていられると思うか。
カドモス
しかし、神様が人と同じように、腹を立てられるということがあってもよいものなのでございましょうか?
ディオニュソス
これらのことは、以前から我が父ゼウスのご承認済みなのだ。
アガウエ
ああ、もはや逃れられぬ運命。私はこの国から追われる憐れな身……

(ディオニュソス退場。カドモスとアガウエも別れを告げて、それぞれ別々のところを目指して退場)

コロス(ゆるやかな歩調で退場しつつ歌う)
神意はさまざまの姿をとりて顕われ
神々はさまざまの思いもよらぬことを遂げたもう。
思い設けしことは成らずして
思い設けぬことを神は成らしめたもう
かくてぞ過ぎぬ 今日のことも。

カドモスとハルモニア、蛇に変身し余生を森で暮らす