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ポリュクセネの犠牲ポリュクセネの犠牲

女の中で一番不幸なトロイア王プリアモスの妃

トロイアのヘカベの娘ポリュクセネは、処刑される前にこう言いました。「わたしは進んで死ぬのです。誰もわが身に触れてはなりません。首は差し出しましょう。自由な女として死ぬために」と。あまりに潔い態度に、ギリシャ軍の全員が感嘆し、葬いの手を差し伸べたいと申し出たほど。

しかし、ヘカベは誰にも娘を触らせたくありません。自分の手で娘を葬りたかったのです。そのために老召使に海水を汲みに行かせます。すると、そこにはヘカベにとってさらなる悲劇が待っていたのです。

エウリビデス作ヘカベ』No.2
コロス合唱隊)=奴隷になったトロイアの女たち

(トラキアのケルソネソスの海岸。ギリシャ軍の陣営。アガメムノン王とトロイアの女たちの天幕)

ヘカベ[2]さらなる悲劇 末っ子ポリュドロスの死

(使い人タルチュビオス登場)

タルチュビオス
かつてのトロイアの女王ヘカベ殿は、どこにおいでか。
コロス
そこに、横たわっておられます。
タルチュビオス
おお、ゼウスよ、なんというべきか。ここにおいでの女こそ、いとも栄えたトロイアの王プリアモスの妃。今やトロイアは滅び、奴隷の身で。老いて子もなく地に伏している。不幸なお方、お立ちあれ。
わたしはタルチュビオス、ギリシャ軍の使い、アガメムノン殿の迎えの者じゃ。
ヘカベ
おお、うれしいお人。わたしを墓で殺すと決められて、こられたか。
タルチュビオス
夫人よ、亡くなられたお子を葬られるようにと、お迎えに参った。総大将アガメムノンとその弟メネラオス様のご命令じゃ。
ヘカベ
殺すためではなく、悪い知らせを持ってきたのか。おお、娘よ、そなたは母から引き離されて死んでしまった。悲しや……
して、娘の最後はどうであったか、辛いことでも話してくだされ。

娘ポリュクセネの処刑の様子

タルチュビオス
アキレウスのお子はポリュクセネ殿の手を取って、塚の上に立たせた。純金の盃を両手で捧げて。また乙女があばれぬよう、若者がそばに配された。わたしは軍勢に静粛を命じると、アキレウスのお子は祈りを捧げた。
「わが父よ、来られよ。軍勢とわが贈り物なる乙女の純なる黒き血潮を飲まんとて。われらに恵みをあたえ、船の綱を解き放ち、トロイアよりすべての者が幸いある帰国を待つ故郷に着かせたまえ」軍勢もその祈りに唱和した。

アキレウスのお子は剣を抜くと、若者たちに乙女を抑えるよう合図した。すると乙女はこのように話された。
「わたしは進んで死ぬのです。誰もわが身に触れてはなりません。首は差し出しましょう。自由な女として死ぬために。お願いです。わたしを放してください。王女たるわたしが、死人の間で奴隷女と呼ばれるのは恥ずかしいこと」
アガメムノン殿は、若者たちに離せと命じられました。

ポリュクセネ殿は衣を引き裂いて、胸をあらわにし、地に片膝をつき「若殿、胸を刺すのも、首を切るのもお望みのままに」と。
アキレウスのお子は乙女を憐むように、喉を断ち切りました。乙女は隠すべきところを隠して、乱れることもなく倒れました。軍勢すべての人は、心動かされぬ者はありません。これがポリュクセネ殿の最後でした。
ヘカベ
おお姫よ、押し寄せる禍いにどこを向いたらよいか……わからぬ。嘆きは心から拭い去ることはできぬが、娘よ、りっぱな最後であったことよ。
(タルチュビオスに)何人も娘に触れず、近づけないようお伝えください。すぐに葬るために参ります。

(タルチュビオス退場)

(年老いた召使に)器をとって、海の水を運んできておくれ。娘に最後の沐浴をしてあげ、死出の旅路の用意をしてやろう。だが、旅路に持たせる物はなく、どうしたらよいであろう。何があるか天幕の中で探してみよう。できることをしてあげるしかない。

(ヘカベと老召使、退場)

さらなる禍いがヘカベを襲う!

(老召使、被われた死骸を運ぶ者たちと登場)

老召使
ヘカベ様はどちらにおいでしょう。世にもお気の毒なお方、不幸において誰もこの方を超えられません。
コロス
どうされたのです。そのあまりにも不吉な声は。ちょうどヘカベ様が天幕の中から出てまいられた。

(ヘカベ登場)

老召使
ヘカベ様に持ってきたのはこの苦しみ。言葉に尽くせぬ不幸な奥方様。あなた様は、国も夫も子もなくされ、破滅した死人も同然になられました。
ヘカベ
そのような言葉はもう聞きあきた。ポリュクセネの死体を葬るよう知らせがあったが、そなたらはなにゆえポリュクセネの死体を包んで持ってきたのじゃ。
老召使
ポリュクセネ様をお嘆きになり、新しい不幸にはお気づきにならない……
ヘカベ
おお、不幸な私、まさかその骸はカッサンドラではあるまいな。
老召使
カッサンドラ様は生きておられます。さあ、よくご覧ください。(死体の被いを取る)
ヘカベ
おお、これはポリュドロスではないか! トラキアの友に預けた子じゃ。もう破滅じゃ。禍いに禍いがうちつづく。
コロス
恐ろしい、恐ろしい不幸でございます。
ヘカベ
どのように殺されたのか? どのように発見したのか? 誰が殺したのか?
老召使
存じませぬ。浜辺に流れ着いていたのです。
ヘカベ
おお、それでは夜に見たあの幻は、もうこの世にはないポリュドロスの夢見であったか。
コロス
それでは、誰が殺したのか、お分かりですね。
ヘカベ
夫が黄金をつけて預けた、わが友であったはずのトラキアの領主じゃ。口にするのもはばかる名じゃ。友の信義はどにある。この子を刻んでこんな目にあわすとは。
コロス
黄金欲しさになんという仕打ち。無慈悲な。あれ、アガメムノンの殿様がお見えです。

ポリュメストルに殺されるポリュドロスポリュメストルに殺されるポリュドロス

ヘカベ、アガメムノンに願う

(アガメムノン登場)

アガメムノン
ヘカベ殿、なにゆえ娘御の埋葬においでにならないか。タルチュビオスから、われらギリシャ人は何人も娘御に触れてはならぬと知らされた。しかるに、そなたはゆっくりしている。準備はすべて整ったので、迎えにまいったのじゃ。
ところで、天幕の前の死体は何者じゃ。トロイア人のようだが。
ヘカベ
(傍白)どうしたものか、アガメムノン殿の膝にすがろうか。それとも、黙って不幸を忍ぶか。
アガメムノン
背中を向けて嘆いていてはわからぬ。これが誰か、申されよ。
ヘカベ
(傍白)とはいえ、わたしは奴隷の身。敵の膝にすがろうとしてよいだろうか。
アガメムノン
知られたくないのなら、承知した。もう聞くまい。
ヘカベ
(傍白)この方の助けがなくては、わが子の仇は取れぬ。
(アガメムノンの方を向き、ひれ伏して)アガメムノン殿、お願い申す。この子の仇をとらせてください。この子はわたしの息子ポリュドロスです。じつは、夫プリアモスが万が一のため、大量の黄金とともにこの地の領主に預かってもらった息子です。
アガメムノン
この地の支配者ポリュメストルの許ヘか。して、誰が殺したのか。
ヘカベ
他に誰あろう。トラキアの友であった者です。トロイアが陥落したと知ったからでしょう。
アガメムノン
誰が運んできたのだ。どこかで見つけたのか。
ヘカベ
この老女じゃ。ポリュクセネの湯灌の水を汲ませに浜辺に行かせたのだ……
アガメムノン
ポリュメストルは、どうやら殺してから海に投げ捨てたということだな。
ヘカベ
それも、こんなにも無残に切り刻んで海に捨てて。せめて、葬ってくれればと……。これで浜辺に流れつかねば、誰も弔うこともできなかったであろう。
アガメムノン
はかり知れぬ不幸の数々。これほどの不運な女子は他にはおらぬ。
ヘカベ
わたしは女王で子宝にも恵まれていたが、今は殿の奴隷。年老いて国もなく、子もなく、ただ一人。殿にすがるしかございませぬ。

(アガメムノン当惑して、去ろうとする)

これはどうしたことであろう、助けてくれぬおつもりか。
殿よ、カッサンドラは夜ごと、奉仕しているのであろう。そうであるなら、この殺された我が子は、殿の義兄弟ではありませぬか。この子に情けをかけてやってくだされ。年老いたこの女に復讐の手をおかしくだされ。
コロス
かつての仇敵が友となり、友が仇敵になるとは、不思議な世のことです。

アガメムノンの戸惑いとその理由

アガメムノン
ヘカベ殿、わたしが当惑しているのはこうじゃ。神々と正義のために、ポリュメストルがそなたに罰せられるのはよいが、それはカッサンドラのためにわたしが殺害を計ったようにわが軍に見えずに、そなたの望みがかなえばよいと思っているからだ。ギリシャ軍はトラキアを味方だと思っているのじゃ。
ヘカベ
では、殿が直接手を下さないでよろしゅうございます。トラキアの者が受けるべきものを受けた時、ギリシャ軍が助けようとしたら、わたしのためと分からぬように止めてください。他のことは、わたしがみんな行います。ご安心なさいませ。
アガメムノン
その老いた手で剣を持って、トラキアの支配者を殺せるのか。誰か助太刀をあてにしているのか。
ヘカベ
この天幕には、トロイアの女たちが大勢います。彼女らに手助けしてもらいます。この老召使をギリシャの陣営を通らせてください。
(老召使に)お前はトラキアの友にこう言うのじゃ。「ヘカベがあなた様にとって得になる話があるそうです。お子たちにも聞いてほしいので、一緒に来てください」と。
アガメムノン殿、ポリュクセネとポリュドロスを一緒に埋葬したいので、しばらくお待ちくださいますように。
アガメムノン
そうしよう。今は追い風がないので、船は出航できぬ。その間に復讐の成功を祈っておるぞ。

(アガメムノン退場)

コロス
わが故郷トロイアよ。
ギリシャ人がお前を滅ぼした。
悲しや、もうお前の地を踏むことはありますまい。

夜の静けさに紛れてやってきたギリシャ人に
床にあった夫は無残にも殺されて。
悲しや、わたしは苦しみの奴隷の身
町をふり返りつつ、海を渡って連れてゆかれる。

海よ、ヘレネを連れ戻すな!
父祖の館に帰れぬように呪いつつ。