ヘレネを連れ出すパリス
パリスと一緒にトロイアに連れ去られたメネラオスの妻ヘレネ。ギリシャ人に不貞の女、不実の女と批判されました。ところが、エウリピデス作ギリシャ悲劇『ヘレネ』では、パリスに連れ去られたのは本物のヘレネではなく、雲で作った偽物だということです。
また、ブラッド・ピット主演『トロイ』などの映画では、パリスは美男子、メネラオスは不男が定番です。ところが『ヘレネ』に出てくるメネラオスはイケメン、しかもヘレネは彼を愛し、ずっと操を守っているのです。今までのメネラオス像を覆す設定です。
ところで、トロイアが滅亡し、戦争が終わると男は全員殺され、残された女はみんな奴隷になります。奴隷になった女は夜伽の相手をしなければなりません。戦争の一番の被害者は女なのかもしれません。ギリシャ悲劇『トロイアの女たち』と『ヘカベ』をぜひ読んでください。
エウリビデス作『ヘレネ』No.1
コロス（合唱隊）＝拉致されエジプトに売られたギリシャの女たち
（ナイルの河口にのぞんだ宮殿の前。前景に前王の墓）
ヘレネ［１］驚愕の真実！ヘレネはトロイアでなくエジプトにいた？
前王プロテウスの墓で暮らすヘレネの悲しみ
ヘレネ
わたくしは、テュンダレオスの娘ヘレネと申します。祖国はスパルタです。ゼウスが白鳥となって、母レダのふところに飛びこまれ、思いを遂げられたという話がありますが、信じてよいものでしょうか？
この墓は、前エジプト王プロテウス様のもの。ネレイデスの一人プサマテとの間にテオクリュメノスとテオノエという兄妹をもうけられました。テオノエ様には祖父ネレウス様から与えられた予言の力があり、現在と未来を見通すことができます。
はじめに、なぜわたくしがこの墓の前にいるか、お話ししましょう。それには、ふりかかった禍いを申し上げる必要がございます。
ゼウスの妃ヘラ様、愛の女神キュプリス（アフロディテ）様、ゼウスの娘アテネ様がイダの山にパリスを訪ね、美しさを競いました。パリスの審判です。その結果、キュプリス様がパリスとわたくしとの結婚をエサにして、勝利を勝ち取ったのです。
こうして、パリスはイダの山を去り、わたくしの故国スパルタにやって来たのです。
しかし、ヘラ様は判定に対する恨みを持って、パリスとわたくしとの結婚をなかったことにしようとなさったのです。わたくしの代わりに、雲から作られた似姿を与えられたのです。
ですから、パリスがトロイアに連れていったのは、わたくしではありません。ゼウス大神の指図でヘルメス神が本物のわたくしをこのエジプト王プロテウス様の館に連れてきてくださったのです。
また、ゼウス大神には２つの謀りごとがありました。
一つは、この地上から増えすぎた人間を減らすこと。もう１つが、ギリシャ第一の英雄アキレウスの名を輝かすことです。だから、トロイア戦争が起ったのです。
しかし、夫メネラオスはこれらのことを知らなかったで、多くのギリシャ兵とともにトロイアで戦っています。そして多くの命が、トロイアのスカマンドロスの河辺に散っていることでしょう。そのため、わたくしは夫を裏切った、ギリシャ人を大きな戦いに巻き込んだ女だと思われているのです。
名誉を失ってしまったわたくしは、どうして生きていられましょう。
死を諦めたのには訳があります。それは、ヘルメス神のお言葉があったからです。わたくしがトロイアに行っていないこと、誰の妻にもなっていないことを夫メネラオスがいずれ知り、スパルタの地でまた一緒に住むことができるということでした。
そんな中、プロテウス様がご存命のうちは、誰からも結婚を迫られることはなかったのですが、亡くなられてしまうと、そのご子息テオクリュメノスが、わたしを妻にと望まれたのです。
ですから、わたしはプロテウス様のお墓にひざまずいて、メネラオスへの操を守っていただけるようお願いしているのです。この墓にいる間は、たとえ王でも無理やり結婚することはできないからです。故国スパルタではどんな悪評を立てられようと、わたくしは清らかでいたいのです。
大アイアスの弟・弓の名手テウクロス
（テウクロス、弓を手にして登場）
テウクロス
堅固に守られたこの館の主は、誰であろう？ おお、なんとあの姿は？ ギリシャ人を破滅に導いたあの女に瓜二つ。
（ヘレネに）じつによくヘレネに似ていらっしゃる。もし本物なら、この弓であなたを射殺していたでしょう。でも、この地にいるはずはないからな。
ヘレネ
お気の毒な方、どうなさりました？ どなたなのですか？
テウクロス
テラモンの子テウクロスと申す。祖国サラミスを追われてきた哀れなギリシャ人です。
ヘレネ
なにゆえ祖国から追われたのですか？
大アイアスの自害
テウクロス
兄アイアスがトロイアで死んだからです。自分の剣で果てたのです。
アキレウスが死んで、その武具を求めて兄アイアスとオデュッセウスの争奪戦になり、オデュッセウスが勝ちました。兄は憤慨して自死したのです。そのことで、父テラモンはわたしが兄と一緒に死ななかったことを責めたのです。
ヘレネ
では、あなたもトロイアに遠征なさったのですね。
テウクロス
ええ、トロイアを滅亡させた一人です。トロイアの城砦は火で焼き尽くされました。
ヘレネ
おお、かわいそうなヘレネ、おまえのためにトロイアの人は滅びました。
テウクロス
ヘレネはまた、ギリシャ人にとっても禍いを生んだ女です。
ヘレネ
トロイアが滅んで、もうどのくらい経つのですか？
テウクロス
およそ7年になりましょうか。その前に戦いは10年間続きました。
ヘレネ
あのスパルタの女は、捕らえられたのでしょうか？
テウクロス
ええ、メネラオス殿が髪をつかんで引きずっていくのを見ました。
ヘレネ
メネラオスは妻と一緒に、スパルタに帰っているのでしょうか。
テウクロス
いいえ。帰っておりません。行方が知れぬという噂です。エーゲ海の中ほどで嵐にあい、ギリシャの船は、ほとんどが遭難したのです。女神アテナの怒りによってです。小アイアスが、アテネの社でトロイアの姫カッサンドラを凌辱したからです。
ヘレネ
（小声で）ああ、おしまいだ、メネラオス様。（声を大きくし）テスティオスの娘は生きておりましょうか？
テウクロス
ヘレネの母レダのことですね。ヘレネの不実が原因で、首に縄をかけてお亡くなりになりました。
ヘレネ
テュンダレオスの息子たちは生きておりましょうか？
テウクロス
ヘレネの兄弟ですね。自害したとも、星になったとも言われています。はっきりしないのです……。もうこのようなヘレネに関する話は、不幸ばかりですから、聞かないでください。
ところで、この館へ参ったのは、予言者テオノエ様にお会いしたかったのです。お力をお借りできましょうか。キュプロスの島に向かうには、どうしたら順風を得られようかと。アポロン神のお告げでは、故国を偲ぶ手だてに、キュプロスの名を「サラミス」に改めて、そこに住むがよかろうと。
ヘレネ
船出をすれば、道は自ずとわかります。それより、早くここをお逃げになってください。この国の王は、ギリシャの旅人とみれば殺してしまうのです。理由は聞かないでください。話せば長くなりますから
テウクロス
ご親切なお言葉です。姿はヘレネに似ていらっしゃるが、心はそうではない。神々の祝福があり、いつまでも幸せでありますように。
（テウクロス退場）
テウクロスの言葉に動揺するヘレネ
ヘレネ
この深い悲しみをどんな調べにのせましょう。
翼を持った乙女らよ、大地の娘セイレンたちよ
嘆きに応え、来ておくれ。
（ヘレネの歌に応え、コロス登場）
ヘレネ
ああ、聞けばトロイアの城は焼け落ちた。
多くの命を失わせたのはわたくしが原因
いえ、数々の苦難を生んだわたくしの名が原因
また、母のレダもわたくしの汚名を恥じて首を括られた。
夫も長い漂流にあい、行方しれず。
スパルタの誇りであったカストル兄弟も今はなく。
コロス
ああ、何とお痛わしい定めでしょう。
あなたは祖国を見ることも許されず
トロイアの男の妻になったと言う噂が
町々をめぐっております。
もう、故郷の家には帰れないことでしょう。
ヘレネ
トロイアの男パリスは女神キュプリス（アフロディテ）とともに、わたくしを妻にするためにやってきたのです。でも、ゼウスの妃ヘラ様はヘルメス神を
おつかわしになり、このエジプトにわたくしをお連れになりました。
コロスの長
やむないご不幸は、もうお気になさらなくいで。
ヘレネ
世にも珍しいわたくしの身の上。醜い姿に変えることができたら、どんなにかよかったことでしょう。
今は数々の不幸が、わたくしを襲います。母もなく、たった一つの希望、いつか夫がやってきて、わたくしを救いだしてくれるというその希望もありません。わたくしの娘ヘルミオネも嫁ぐことはなく歳をとっていくでしょう。
今はもう生きながらえることはなく、いっそ死んだほうが良いのでしょう。美しく生まれついたことは、普通の女なら幸せにつながりましょう。その同じ美しさは、わたくしの身を滅ぼしすのです。
コロスの長
ヘレネ様、あの旅のお方の言葉がすべて真実とは限りません。悪いことばかりを信じないでください。このお館で、あなたにご好意を寄せる方はおられませんか？
ヘレネ
みんな親切ですが……。わたくしを妻にしたがっている人が今の王で、困り果てています。
コロスの長
よろしいですか。家に入って、すべてを知るテオノエ様に確認したらいかがでしょう。あなたの夫が生きておられるか、死んでしまわれたのか、確かめたうえで、喜ぶなり嘆くなりなさればよいのです。
（ヘレネとコロス、王宮へ入る。ぼろをまとったメネラオス登場）
