※本ページにはプロモーションが含まれています。

トロイアの王プリアモスの死トロイア王プリアモスの死とヘカベ(右)

女の中で一番不幸なトロイア王プリアモスの妃

これほどの不幸な女性の話は聞いたことはありません。その女性の名はヘカベ。トロイアの王妃です。

王妃の子供には、あのアキレウスに敗れたヘクトル、その弟でトロイア戦争の原因を作ったパリス、アポロンから予言の能力を授かったカッサンドラ、その妹ポリュクセネ、末っ子のポリュドロスがいます。

ヘカベのこの子供たちは、トロイア陥落前後に、みな殺されてしまいました。そのあまりに悲惨な彼女を扱ったギリシャ悲劇が、エウリビデス作ヘカベ』です。これほどの悲劇がなかなか取り上げられないのは、残念です。

悲劇ですので、会話で要約しましたので、読んでみてください。

ヘカベの子には、ヘレノス(カッサンドラと双子と言われる)とクレウサがいます。二人はトロイア戦争中に故郷を離れていますので、この悲劇には出てきません。

エウリビデス作ヘカベ』No.1
コロス合唱隊)=奴隷になったトロイアの女たち

(トラキアのケルソネソスの海岸。ギリシャ軍の陣営。アガメムノン王とトロイアの女たちの天幕)

ヘカベ[1]女の中で一番不幸なトロイア王プリアモスの妃

ヘカベの末っ子ポリュドロスの亡霊、現れる

ポリュドロスの亡霊
私はポリュドロス。父プリアモスはトロイア陥落の恐れから、この地トラキアの支配者で友のポリュメストルに幼い私をあずけた。私が困らないように、多くの黄金をつけて。
しかし、ヘクトルが死んで、トロイアが陥落したと知ると、ポリュメストルは黄金欲しさに私を殺し海に捨てた。私はずっと波間をただよい、この浜辺に打ち上げられた。

さて、ギリシャ軍はこの浜に来て3日になる。亡きアキレウスの亡霊が、姉上ポリュクセネを自分の墓に捧げよと求めているからだ。アキレウスの欲求は受け入れられ、今日姉上は生贄になるだろう。
そして、気の毒な母上は、私の死体をも見ることになろう。私が母上に葬られることを、神々に願ったからである。母上の老召使が浜辺で私を発見することになっている。

ああ、母上、人の君たる家より出て、奴隷の憂き目を見ることになるとは、なんと惨めな定めであろうか。

(亡霊が消え、夢に驚いたヘカベ、女たちに支えられながら、アガメムノンの陣屋より登場)

ヘカベ
トラキアに守られているわが子と
また愛しい娘ポリュクセネの夢よ去れ。
おお、地下の神々よ、守りたまえ
夫のトラキアの友に守られている
たった一人残されたわが家の希望よ。
悲しみの歌が、悲しんでいる私たちに来る
このような恐れはかつてなかった。
予言の力もつヘレノスよ、
カッサンドラよ、いずこにいるのだ
アキレウスがわが娘を求めた
神々よ、この運命を退けたまえ。

(コロス登場)

コロス
ヘカベ様、われらが割り当てられた主人の陣屋から急いでまいりました。姫様をアキレウスの墓の生贄に定めたという悲しい知らせがありました。
アキレウスは、出港する軍船を呼び止めてこう叫んだそうです。
「供物も捧げず、我が塚を離れるのか」
ギリシャ人の意見は、アキレウスの意にそうか、そわないか別れたそうです。そんな中、オデュッセウスが説き伏せたのです。
「かつてない勇者の願いを拒むべきではない」と。

もうすぐ、オデュッセウスがやってきます。その前に姫様を連れて、神々の祭壇におすがりください。そうすれば、慣例からオデュッセウスであろうと手が出せません。
そして、カッサンドラ様をえた総大将アガメムノンに助けを願うのです。きっと、味方になってくれましょう。
ヘカベ
おお、禍いの使者
禍い事の使いなるトロイアの女たち
破滅じゃ、破滅じゃ

(ポリュクセネ、天幕より登場)

ポリュクセネ
母様、そのお声は、いかがなされました。
ヘカベ
悲しや、わが娘! ああ、逃れぬお前の命。
ポリュクセネ
恐ろしい、母様、何をお嘆きか。
ヘカベ
アキレウスにお前を、墓のそばで生贄にしようとしている。
ポリュクセネ
なんと恐ろしいこと。もう、わたしは惨めな母様の惨めな苦界のお供をいたすことはかないません。
哀れな母様はご覧になりましょう。喉を切られて黄泉の国へ、送られるわたしを。不幸な母様を嘆いても、私の命は悔やみません。死ぬ方が幸せというものですから、
コロス
ほれ、オデュッセウスがやってきます。

ヘカベを労るポリュクセネヘカベを労るポリュクセネ

アキレウスの墓に捧げられる娘ポリュクセネ

(オデュッセウス登場)

オデュッセウス
ヘカベ殿、そなたの娘ポリュクセネを、アキレウスの墓に築かれた塚で殺すと定めた。われらは命令により、姫の護送者になった。このいけにえの儀の執行者は、アキレウスの子ネオプトレモスだ。
ヘカベ
ゼウスは哀れなわたしに、また不幸をあたえられる。オデュッセウス殿、奴隷の身であるが、聞きたいことがあるがよいかな。
オデュッセウス
よい。お尋ねあれ。
ヘカベ
覚えておいでか、御身はトロイアに偵察にきた時、ボロをまとい、両の目から血が流れていた。ヘレネが御身に気づいて、わたしだけに告げたのを。
オデュッセウス
わたしの心に深く刻まれている。危ういところであった。
ヘカベ
身を低うして、わたしの膝にすがったであろう。
オデュッセウス
殺されまいと、必死に言葉を尽くした。
ヘカベ
わたしは御身を救い、国から逃してやったではないか。
オデュッセウス
いかにも。だからこうして日の光を見ることができている。
ヘカベ
それでは、この仕打ちは無残というものではないか。恩を受けながら、その返礼もしないで、われらに悪業をするとは。生贄には牛こそふさわしい。この子はアキレウスに何の罪もない。ギリシャにもトロイアにも多くの死人を出したヘレネこそ、アキレウスの墓にはふさわしいのではないか。

今度はわたしが御身にすがって、あの時の恩返しに情けを乞うている。わたしの手からこの子を連れていって、殺さないでくれ。この子は何者にも代えがたいわたしの慰めなのだ。女を殺すことはどんなに恥ずべきことか、御身なら皆を説得できるであろう。
オデュッセウス
ヘカベ殿、聞き分けけてくれ。わたしを助けてくれたあなたの身は喜んで守ろう。であるが皆に言ったことを翻すわけにはいかぬ。トロイアが落ちた今、その第一の功労者アキレウスが求める、あなたの娘を彼に与えるということなのだ。

優れた武将が一番多くのものを得ないならば、国の禍いになろう。討ち死にした者が尊ばれないのなら、誰も戦いには進んで参加しなくなる。だから、こらえてくれ。立派な勇士を尊ぶのが間違いなら、どんなそしりも喜んで受けよう。
コロス
ああ、奴隷の境涯とは何と惨めなことであろうか。耐うべからざるに耐え、力に屈しなくてはならない。
ヘカベ
おお、娘よ、わたしの言葉はついえた。オデュッセウス殿の膝にすがって、命ごえを。彼とて子の親であろう。

ポリュクセネの潔さ

ポリュクセネ
オデュッセウス殿、ご安心ください。わたしは願いなどいたしませぬ。逃れぬ定め、また死は願うところ、お供いたしましょう。
わたしはトロイアの王の娘として生まれ、育っては誰もがうらやみ、多くの者が花嫁に迎えようとしました。しかし、生きていれば奴隷の身、誰かのために小間使いをせねばなりませぬ。やがて、金でこの身を買いたいという人も出てくるでしょう。

嫌です。自由な身でハデスにこの身を捧げるため、世を去ります。母様、口でも手でもわたしを止めないでください。不幸の味になれない者は、首をくびきにつけられては、耐えはして苦しむもの。生きているよりは幸いでございます。
ヘカベ
娘よ、その言葉は天晴れではあるが、悲しみがつきまとっている。
オデュッセウス殿、この子の代わりにわたしを墓のところで殺してくれ。アキレウスを弓で射殺したパリスを産んだのはわたしなのだから。
オデュッセウス
アキレウスの亡霊が望んだのは、あなたの死ではない。この娘の血なのだ。
ヘカベ
それでは、娘と一緒にわたしを殺してくだされ。
オデュッセウス
死に死を重ねるべきではない。娘の死もなくて済ませられればよいのだが……
ヘカベ
であれば、この子は渡さない。
ポリュクセネ
哀れな母様、お聞きいれくださいませ。そうしないと、惨めに突き飛ばされます。それより母様、そのうれしいお手をさし出して、頬ずりをしてくださいませ。日の光を見るのはこれが最後ですから。わたしを産んでくださった母様、わたしはあの世に参ります。
ヘカベ
娘よ、奴隷でもいいから、二人で一緒に生きのびよう。
ポリュクセネ
いいえ、母様。わたしは逝きます。ヘクトルや年老いた父上には何とお伝えいたしましょうか。
ヘカベ
わたしは女の中で、一番惨めな女……じゃと伝えてくれ。
ポリュクセネ
はい……では、さらばでございます。母様、さらばカッサンドラ。
(小声で)トラキアにはまだポリュドロスが……
ヘカベ
生ていればよいが、怪しいものじゃ、こうも不幸が続くからには。
ポリュクセネ
生きておりますとも。臨終には母様のお目を閉じてくれましょう。
ポリュクセネ
オデュッセウス殿。さあ、連れていってください。
ヘカベ
おお、気が遠くなり、手足がなえる。娘よ、母に手を伸ばしてくれ。破滅じゃ、ああ、すべての原因のヘレネがこんな目にあうのが見たいもの。あの女が、この無残な破滅をもたらしたのじゃ……

(ポリュクセネ、オデュッセウス退場。ヘカベ、くずれ落ちる)

コロス
風よ、海のそよ風よ、
どこへ哀れなわたしを連れていくのか
おお、わが国よ、わが父よ、わが子らよ。
ギリシャ人の槍先に崩れ落ち
アジアを後に、ヨーロッパに
ハデスの家に連れられていく。