ポリュメストルの眼をつぶすヘカベ
ヘカベは女たちの手を借り、トラキアの支配者ポリュメストルの目を潰し、二人のふたりの幼子も殺して、ポリュドロスの復讐を果たしました。
アガメムノンはこの騒ぎを公平に判断するために、ポリュメストルとヘカベの言い分を聞きます。
ポリュメストルは表面的には将来のギリシャのためといい、本心では黄金を自分のものにしたいだけでした。ヘカベはポリュメストルの思惑を見逃こともなく、アガメムノンに訴えます。『トロイアの女たち』でも、ヘカベはヘレネと論争し、見事にヘレネを言い負かしました。
ポリュクセネの死、ポリュドロスの死と次々に襲ってくる不幸に打ちのめされるヘカベですが、論争になると相手の弱点を見事につきます。
エウリビデス作『ヘカベ』No.3
コロス(合唱隊)=奴隷になったトロイアの女たち
(トラキアのケルソネソスの海岸。ギリシャ軍の陣営。アガメムノン王とトロイアの女たちの天幕)
トロイア戦争|ヘカベ[3]トラキア王ポリュメストルへの制裁
ヘカベの罠
(ポリュメストルとふたりの幼子と従者、老召使に連れられて登場)
ポリュメストル
おお、この世で一番大切なプリアモス王のお妃ヘカベ殿。あなたの国、殺されたあなたの姫を見て、涙がこぼれる。
ああ、何事もあてにならぬ。名声も同じ、栄えもいつのまにか零落の底に沈む。わたしの留守を責めるのはお待ちあれ。トラキアの奥地に入っていたのだ。帰ってきたら、あなたの女召使に会い、ここにきました。
ヘカベ
ポリュメストル殿、こんな惨めな境遇でお目にかかるのは恥ずかしく、また情けない。
ポリュメストル
なんの、なんの。ところで、わたしに何のご用じゃ。
ヘカベ
そなたとお子たちだけに申し上げたい。お供の者をこの天幕より退がらせてほしい。
ポリュメストル
(従者に)退れ。ここはなんの心配ない。(従者退場)
ギリシャ軍はわれらに好意を持っている。だが、あなたはわが友。あなたたちを助けたいと思っている。
ヘカベ
まずは、あずけているポリュドロスはどうしていますか。生きていますか。
ポリュメストル
もちろん。そのことではあなたは幸せだ。
ヘカベ
あの子が持参した黄金も無事ですか。
ポリュメストル
いかにも、しっかり館で護られている。
ヘカベ
よかった。では、あなたとお子たちに教えておきたい。プリアモス一族が隠している黄金のことを。
ポリュメストル
そのことをお子ポリュドロスに伝えておきたいと言うことか。
ヘカベ
いかにも。そなたに託して。もしそなたに万が一のことがあったら、お子たちも知っていた方が良いと思ってな。
ポリュメストル
もっともじゃ。そうすることが利口というものじゃ。
ヘカベ
それでは、イリオンのアテナが宝庫をご存じか。
ポリュメストル
そこに黄金があるのか。目印はなんじゃ。
ヘカベ
地から突き出た黒い岩。あとわたしが持参した財宝が天幕の中にあるので、あずかってほしい。天幕の中は女だけなので、ギリシャ軍は入れないので安全じゃ。さあ、中にお入りなさいませ。
(ヘカベ、ポリュメストルとその子たち、中に入る)
ポリュメストルへの制裁
コロス
お前を死の王へと導く望みが
お前をこの欲の道に失望させよう。
おお、哀れな者よ。
戦士でない者の手に命を落とす。
ポリュメストル
(天幕の中より)おお、盲にされる。
おお、子供らよ。恐ろしい人殺しだ!
おお、どこでも構わぬ。
この手で打って打って懲らしめてやる!
コロス
中に入って、ヘカベ様をお助けしましょうか。
(ヘカベ登場)
ヘカベ
遠慮はいらぬ。打つがよい。もう二度とその瞳には光は戻らぬ。再び子供たちも見ることもかなわぬ。
コロス
奥方様、うまくやりとげましたか。
ヘカベ
今出てくるであろう。盲になってよろめく足で。女たちの力をかりて、子供らも殺してやった。もうすぐトラキアの男が出てこよう。わたしは遠のいていよう。
(ポリュメストル手探りで登場。子供たちの死骸が天幕の中に見える)
ポリュメストル
おお、いずこに行こう。
トロイアの女どもを捕まえたい!
ヘカベはどこに逃げた。
おれの受けた苦しみの償いをさせてやる!
コロス
可哀そうに。でも悪いことをしたあなたにそういう資格はありません。
ポリュメストル
ああ! おおい、トラキアの槍持つ馬の民よ。おおい、ギリシャ人よ、アガメムノンよ。来てくれ、お願いだ。
捕われの女どもに、おれはむごい目にあわされたのだ。
(アガメムノン、従者とともに登場)
アガメムノン
トラキアの友よ、叫び声を聞いて、参ったぞ。
ポリュメストル
おお友よ、アガメムノン殿。わたしがどんな目にあっているか見えるか。
アガメムノン
これは気の毒なポリュメストル殿、あなたの眼と子供たちに害をなしたのは誰じゃ。誰であろうと、よほどあなたに怒りを持っているのに違いない。
ポリュメストル
下手人は、ヘカベと捕らわれの女たちだ。
アガメムノン
(ヘカベに)この男の言うとおり、これはそなたの仕業か。ヘカベよ。
ポリュメストル
おお、なんと、あの女は近くにいるのか。教えてくれ。引っつかんで引き裂いてやる。
アガメムノン
待て、なんでこうなったのか、説明を聞こう。公平な判断ができるようにな。
ポリュメストルとヘカベの言い争い
ポリュメストル
では、言おう。わたしはプリアモスとヘカベの末子ポリュドロスをあずかっていた。その子をわたしは殺した。なぜかを、よく聞いていただきたい。その子が生きていれば、いずれトロイアを再興しよう。そして滅ぼしたのがギリシャであると知れば、きっと復讐を考えるはず。
そうなれば、またギリシャとトロイアの戦いになり、アガメムノン殿らはトロイアに遠征すかもしれない。あるいはトロイアがギリシャを攻めるかもしれない。どちらにしても、わがトラキアは陸路にあるため、戦乱に巻き込まれてしまう。その禍いを断つにはポリュドロスを殺すしかなかったのだ。
それを知ったヘカベが、トロイアの隠し財産をエサにわたしとわが子をおびき出し、天幕の中に招いた。女どもは子供たちをあやしながら、おれから離すと殺した。また、俺は手足を押さえつけられ、この眼を潰されたのだ。
アガメムノン殿、だからあなたの敵ポリュドロスを殺した報いがこれだ。こんな残虐が、許されようか。
コロス
自分の欲深さによる当然の報い。ヘカベ殿とトロイアの女たちのせいにするのではない。
ヘカベ
アガメムノン殿、不正をうまい言葉で言いくるめることがあってはなりませぬ。
お前はギリシャやアガメムノン殿のためにわが子ポリュドロスを殺したと言っているが、ギリシャ軍がトラキアを荒らしたこともなく、ましてやトロイアはお前を大事な友として扱ってきたではないか。お前は欲深さから、黄金に目が眩んだのだ。
教えてもらいたい。どうしてヘクトルが元気であった頃に、トロイアが滅亡する前にポリュドロスをギリシャ軍に引き渡さなかったのか。トロイアが滅亡したことが分かってから、殺したのだ。また、最初からあずけた黄金を軍資金として渡せば、ギリシャ軍も喜んだであろう。それなのに、いまだに黄金を手放すことができずに館に隠している。
そうでなく、わが子ポリュドロスを立派に育てたならば、お前は信義ある者と讃えられたであろう。もしお前が窮乏したら、わが子はきっと助けたことであろうに。アガメムノン殿、この男を助ければ、ご自身も悪人と思われましょう。お許しあれ、悪口を言うつもりはありません。
コロス
ヘカベ様、立派に言うべきことをおっしゃりました。
アガメムノンの采配と不吉な予言
アガメムノン
ポリュメストルよ、ポリュドロスを殺したのは我らギリシャ人のためでなく、黄金を持っていたいためであろう。自分に非がありながら、自分に都合の良いことを言っているに過ぎぬ。ギリシャ人には恥ずべきことで、痛い思いをしたのも当然の報いだ。
ポリュメストル
おお、おれは女奴隷に負けて、罰を受けたというのか。ええい、売女め、いずれお前は帆柱から落ちて、海に沈むであろう。
ヘカベ
勝手なことを言って。誰かにつき落とされるとでも言うのか。
ポリュメストル
火のような目の犬となって、自分で帆柱に登って落ちるのだ。
ヘカベ
どうして、わたしが犬に変身すると知っている。
ポリュメストル
トラキアの予言者ディオニュソスの言葉だ。
ヘカベ
お前の今うけた禍いは予言してもらえなかったのか。
ポリュメストル
予言してもらっていれば、こうにはならぬ。だが、お前は死ぬ。お前の墓碑銘は"哀れな牝犬の墓。船人の目印(トラキアの半島名)"
そして、カッサンドラも殺される。
(アガメムノンを指差し)この人と一緒に、この人の妃クリュタイムネストラにな。
ヘカベ
おお、お妃様がそれほど乱心することがありませぬように。
アガメムノン
おい、気が狂ったか。痛い目にあいたいのか。
ポリュメストル
殺せ! 故郷アルゴスでは、血の沐浴がお前を待っているわ。
アガメムノン
おい、こやつを引っ立てろ! あまりといえばあまりな雑言。
ヘカベ、そなたは行って二人の骸を葬られよ。トロイアの女たち(コロス)、そなたらは主人の天幕に行くが良い。
ちょうど風向きが良くなってきた。われらは故郷へと出航するとしよう。
コロス
皆様、港へ、陣屋へ行きましょう。定めとは酷いものです。
ヘカベの哀悼(左にポリュドロス、右にポリュクセネ)