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ディオニュソスディオニュソス

エウリピデス作『バッカスの信女』No.2

「まんまと、網にかかったぞ。王は信女のところに行き、命を落とし、罪を償うことになるのだ」
と、神ディオニュソスはペンテウス王を罠にはめます。

これが、ギリシャ神話の神。神は非礼を働く人間には、情け容赦がありません。「神聖」という言葉からはほど遠い存在で、人間の基準では神の善悪ははかれません。

また、バッカスの信女の狂気の行動も、「敬虔な信仰」という言葉からははるかにかけ離れています。

エウリピデス作『バッカスの信女』No.2
コロス(合唱隊)=リュディアからきたディオニュソスの信女
※バッカス(ローマ神話)=ディオニュソス(ギリシャ神話)

(テーバイ市のアクロポリス。背景はカドモス宮殿の正面。正面にセメレの塚)

バッカスの信女[1]取り憑かれた女たちの狂気と神の策謀

捕われたディオニュソス

(番兵がディオニュソスを捕らえて連れてくる。ペンテウス登場)

番兵
王様、手配の者を捕らえました。
不思議なことに、この男を牢に連れていくと、信女どもの縄が自然とほどけ、牢の鍵も開いてしまいました。信女どもは飛びはねて出ていってしまいました。
ペンテウス
(ディオニュソスをジロジロ見ながら)お前はなかなか器量がいいな。髪も肩まで伸ばし、肌も白い。女目当てにテーバイまで来たのであろう。
ところで、お前はいったい何者なのだ?
ディオニュソス
リュディアの花咲き香るトゥモロスの山はご存じでしょう。
ペンテウス
知っておる。サルデイズの都を囲んでいる山であろう。そんな遠くから、どんな事情でこのギリシャに信仰を広めようときたのじゃ。
ディオニュソス
ゼウスの息子ディオニュソス様が命じられたからです。
ペンテウス
ほほう、その信仰とはどんなもので、どんなご利益があるのか?
ディオニュソス
信仰に入らぬ者には秘儀もご利益も明かすことはできません。神の秘儀は、神に非礼を働く人間を嫌うのです。

バッカスの信仰

ペンテウス
その信仰を広めにきたのは、このギリシャがはじめてか?
ディオニュソス
いや、アジアではディオニュソスを崇めない国はありません。
ペンテウス
アジアは田舎者ばかりだからな、知恵が足りぬからであろう。ところで、祭りをするのは夜か、昼か?
ディオニュソス
おおかた夜です。闇には荘厳の気がありますゆえ。
ペンテウス
夜か。女どもには危うい、いかがわしい時間帯じゃ。
ディオニュソス
昼でも、淫なことをしようと思えばできましょう。
ペンテウス
屁理屈を申すな、ただではすまぬぞ。お前の長い髪を切り落としてやる。その杖もよこせ。牢にも入れてやる。
ディオニュソス
牢に入れられても、ここにおられる神が私をいつでも自由にしてくださる。
ペンテウス
どこにおるというのじゃ。俺には一向に見えぬがな。
ディオニュソス
信心がないから、神のお姿が目に入らぬのです。王は、自分のことを何もわかっておられぬ。
ペンテウス
知っている。父エキオンと母アガウエとから生まれたテーバイの王ペンテウスだ。
ディオニュソス
ペントスとは〈悲しみ〉ということ。その名の通り、不幸にあう運命です。
ペンテウス
ええい、牢屋に引っ立てろ!
(コロスのバッカスの信女に)お前が連れてきたこの女たちは、奴隷に売りとばすか、機織りにでも使ってやろう。

(ペンテウス、宮殿に入っていく。ディオニュソスは番兵に連れられ退場しつつ)

ディオニュソス
王よ、神が見えぬというが、その神ディオニュソスがお前の非礼を罰してやろう。

(コロス、舞い踊る中、宮殿が揺れ動く)

コロスの長
ああ、ほれ、見えませんか?
ディオニュソスの母上セメレの
お墓のそばに火が燃えているのが。
あれはむかしセメレ様が
ゼウスの雷に打たれたときの
名残りの火。
さあ、みなの者、ふるえる身を
大地にお伏せなさい。
わたしらの主、ゼウスの御子が、
この館をさんざんに打ち壊すのです。

(コロス、みな地上に身を伏せる)

ディオニュソス、宮殿からゆうぜんと現れる

ディオニュソス
リュディアの女たちよ、もう心配することはない。身を起こすがよい。
コロスの長
また、お会いできてなんと嬉しいことでしょう。もしあなた様の身に何かあったら、私たちはどうなるかと心配しておりました。
どうやって自由の身になられたのですか。
ディオニュソス
なんのことはない。牡牛と私を間違えて、縛ったというわけさ。この時、ディオニュソス様が現れて、宮殿を揺るがし、母君セメレ様の墓に火を灯されたのだ。
王と兵士どもは右往左往し、私を捕まえるどころか疲れきって途方にくれれている。神に逆らった当然の報い。おや、中から王が出てくる。

(ペンテウス、宮殿から出てくる)

ペンテウス
宮殿に恐ろしいことが起こった。また、あの魔法使いが逃げてしまった。
えっ、きさま、そこにいたのか。

(ペンテウス、ディオニュソスに襲いかかろうとする)

ディオニュソス
お待ちなさい。まず、気を鎮めなされ。
ペンテウス
お前はどうやって縄をほどき、外に出られたのだ。
ディオニュソス
先ほど、私はいつでも神が自由にしてくれると言ったはずですぞ。

牛飼いの報告、キタイロン山の信女の恐ろしい所業

(牛飼い登場)

牛飼い
王様、私は神霊に取り憑かれた女どもを見ました。山で世にも不思議なことを、なんと申し上げたらよいのか……
ペンテウス
なんなりと申すがよい。お前たちにはなんの罰も与えぬ。
牛飼い
朝方、我らは牡牛の群れを山の牧場に追っていました。その時、三組の信女を見ました。
一組はお母上アガウエ様、一組はイノ様、もう一組はアウトノエ様が率いておられました。

牛の鳴き声で目を覚まされたお母上は、「起きよ」と声をかけられました。
女どもは起きると、なんと蛇で衣を胴のところで結えたのです。
それから、一人が杖を取って岩を叩くと清らかな水が湧き、杖を大地にさせば葡萄酒が泉のように湧いてきました。また杖からは蜜が滴り落ちています。その後、神の名を呼び踊りはじめます。すると、全山ことごとく揺れ、獣らまでも踊りだしました。

アガウエ様は私らに気づくと申されました。
「わが忠実な犬たちよ、この男どもは私らを捕らえようとしている。さあ、杖を武器にして集まっておくれ」
我らは八つ裂きにされるかと思い、逃げだしました。すると、女たちは牡牛と子牛をバラバラに引き裂いたのです。肉片が周りに飛び散りました。

それからキタイロン山をすばやく駆け下りると、近くの村を襲いはじめたのです。奪った子供や物は、体に結えつけなくとも、なんと宙に浮いていました。
また、髪の毛の上には火が燃えていました。怒った村人は槍で女たちを突いたのですが、血は出ません。反対に女たちの杖に散々痛めつけられます。もはや、逃げるしかありませんでした。

女たちは、元いた場所に戻ると、湧いた泉で血を洗い流します。王様、これは神の仕業です。どうか、この神様をテーバイにお迎えください。葡萄と酒を授けてくださった神様です。この世に酒がなければ、色恋も楽しみも虚しいものとなりましょう。
ペンテウス
なんというろうぜき、ギリシャの恥辱だ。ディオニュソスの信女を討伐せねばならぬ。兵士を集めよ!
ディオニュソス
ペンテウス王、神に向かって武器を取ってはなりませぬ。信女らを山から追い立てれば、神様は黙ってはおられませぬぞ。
ペンテウス
牢破りめ、俺に説教するとは片腹いたい。山を信女らの血で染めて、ディオニュソスへの犠牲としてやろう。

ディオニュソスの提案

ディオニュソス
牛飼いが申しましたように、信女らの杖の前に、兵士たちは逃げることになりましょう。そんなことにならぬよう、私には万事上手く収める手立てがございます。
ペンテウス
俺をだますつもりであろう。きさま、女どもと申し合わせておるのだろう。
ディオニュソス
信女らとは関係ありません。神様と私の間の申し合わせです。
ところで、王様は山にいる女どもをご覧になりたいとは思いませんか。
ペンテウス
うむ、不快であろうが、酒に酔った女どもを見たいと思う、ただし、見つからぬならな。
ディオニュソス
男の格好では、隠れていても見つかりましょう。だから、女の格好をしてもらいます。これも、神から授かった知恵です。
ペンテウス
しかし、女の格好はどうもな……。少し考えさせてくれ。

(ペンテウス、宮殿に入る)

ディオニュソス
ペンテウスめ、まんまと網にかかったぞ。信女のところに行き、命を落とし、罪を償うことになるのだ。
母の手にかかって最後を遂げ、地獄に落ちるその死出の旅路の衣装を、では王に着させてやるとするか。

(ディオニュソス、宮殿に入る)

バッカスの信女[3]ペンテウスの死と母親アガウエの悲哀